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カイヤン雑記帳

カイヤンがやったことを書いておいたり、ぼやきたいことを書き込んだりする場所

大昔の某記事を引っ張り出して間違いを恐れず語るという害悪をする

ぼやき

おはようございますまたはこんにちはまたはこんばんは。カイヤンです。

さて、土曜日はなんとなくフラフラとネットサーフィンをしていました。先週のように真面目(でもないが)な日記の体裁にはしないけど。

して、そのネットサーフィンでなんとなく検索したのは、卒業研究時代に精神的なお世話になったある方のブログ。

id:next49様の発声練習です。

卒研当時、グサグサ刺さったというかこうはなるまいと思うことができる事例がいくつか挙げられていて、とても助かりました。 特にどうやったら卒研を失敗できるかはこうなっていないであろうことを必死で確認しましたね当時。 いやはやあの頃は精神を完全に病んでいた……。あるハンネでコメントして痛烈に叫んでしまいましたね。ポポポン。

さて、発声練習様の有名な記事といえばやはり価値の判断基準の記事でしょう。

next49.hatenadiary.jp

今日はこの記事についてぼやきます。そういえばカテゴリーがぼやきになるようなぼやきはまだしていなかった。LinuxとTeXについては思想・宗教じみた文体なれど、やったことを書いた形でしたし。

ぼやきにセクションなどない。パラグラフリーディングなどさせるか。論理構成など何も考えていない。書いたその場で次に書く事を考えます。 チラ裏に書いてそれをひゅいっと窓の外に投げる感覚で書くのです。実際にチラシをそう使うのはポイ捨てですからそんなときにブログやSNSは便利と思います。

卒研のとき、ここで話題になった方のようになっていたかはわかりません。ボスから見ればなっていたんでしょう。「おい、考えろよ」と大炎上中間発表直後の面談で言われて泣かされましたし。 あの半年間、研究を楽しいと思うことは基本的にありませんでした。せいぜい自分の書いたスクリプトが思うとおりに動いたときの喜びくらいでした。研究である以上守秘義務もあるため詳細は記述しませんが、 当時私は自分の研究目的はともかく、手法を理解していたかは極めて怪しかったと思います。それもあって自己の中に価値判断基準を作ることはきっとできていなかったでしょう。ただ、一方で、少し思う所があるのは、 当時進めていた研究は、その道のプロ(たとえば私にテーマをくださった当時のボス)でない限りは進捗状況という価値の判断はできないんじゃないだろうかと思います。

データ可視化の研究をしていました。しかしそこでは何を以て「可視」化したと言えるのかが不明です。私が可視化したと思ってもボスからすれば論外ということはしばしばありました。見えやすさについては定量的な評価関数がないのです。私なりに可視化の基準はありました。そういう意味では価値の判断基準は自己の内にあったはずです。しかし可視化であるがゆえ人に見せるものである以上、外に判断基準がないといけなかった。何を以て可視化とするのか自分の中の基準が壊れかかっていた。自己の判断ができない状況が、きっと楽しくなかったのだろうと思います。

一方、今の研究は応用数学。とても楽しく研究しています。何しろ数学を使うので、数学的に正しくなければ間違い、正しければ正しいと極めて明確に判断できるのです。これは楽しい。誰も解いていない問題なので正解も模範解答も当然不明。しかし数学の道を外れれば誤りであるとわかる。先行研究と比べて自分の方が有用な結果であればマイルストーン達成。次の石へ向かう。非常に楽しい。数学だから僕が知らない定理をボスが紹介しても、数学なので納得がいきます。おかしな計算をしているというボスのマサカリも、数学で説明されてとても納得がいきます。即座に反省して軌道修正。また強くなれたなんて思いながら。ボス::可視化と僕::可視化の不整合なんてことはありません。

さて、ここまで書いて一つ疑問が生じました。数学を価値判断の基準とするのは、自分の精神の背骨になるのだろうか、と。

精神の背骨になると仮定します。結果が数学的に正しいかどうか、少なくとも自分のやってることについては自分の血肉とした数学の知識の範囲で判断できるというわけです。このとき、自分の数学の知識に限界が来たらばどうなるのでしょう? 問題が数学である以上、数学的に正しいかを論証するべきです。でも自分には知識がない。さあどうするか。 答えは明白。知識がないのなら調べればいいのです。でも、調べるということはそれはつまり人様の数学の知識を使うということになります。これは外の基準を使っていることにならないでしょうか?

次に、精神の背骨にならないと仮定します。究極的にはすべての数学を知り尽くしていないとどこかで限界は来るわけですから。数学を価値判断の基準にするというのはそういうこと。 でもちょっと待って欲しい。では世の数学者・応用数学者は精神の背骨がないのだろうか。そんな馬鹿な。それは明らかに違うと思う。

どっちなんでしょうね。前述の記事のおっしゃる精神の背骨は太くしていけるものらしいのですが、太くする過程で外の基準を持ち込むことにならないのでしょうか。でもそんなことを言ったら、厳密な自己の中の判断基準というのは、車輪の再開発を全ての事柄について行わないといけなくなってしまいます。

ここで効いてくるのが、

「私の判断基準の基礎は両親が作った。その基準をベースに、読んだ本、小学校・中学校・高校の素敵なあるいは面白い、個性的な先生達、見たテレビ番組、体験したいろいろなことをミックスして私の背骨はできている。大学での私の指導教員の発言や考え、教えも今や立派なに私の背骨の一部だ。いまでは、自分が研究を進めるとき指導教員の声が聞こえてくるくらいだ。「それは何の意味があるの?」「それの定義は何?」とか。私の美醜の基準は、明らかにいままで読んだ小説や漫画に由来しているよ。」

でしょう。「骨を強化」することができるのです。でもやはり疑問に思うことが。「強化」されたかどうか、上の例で言えば外から取り入れた新たな数学的知識を自分の血肉に出来ているかどうかは、可不可の判断が必要でしょう。できていればそれは無事自らの精神の背骨にできている。そうでなければ、それは人様の知識を辞書として用いただけの、外に判断基準を持った状態です。でも、その判断は誰が下すのでしょう? それが自分でできることなんでしょうか? でも自分でできないのであれば外の価値判断の基準を必要とします。自分の骨の「強化」がされたかどうかの判断を、自分の骨でないものに頼らないといけないというのは、大変皮肉(体の組織が比喩として用いられているだけに)でしょうね。でも、「強化」されたと判断できるかどうか、ということもまた判断が必要です。こうして無限ループに陥ってしまうのです。同時に、何が正しいのか全くわからなくなってきました。

ふと思う。無限ループにハマった時点で、判断基準を自己の内に持っていないように感じます。ここで「感じ」という表現をして、そういえば感性は誰からも否定されないと別の記事にあったようなと思い出す。私もそう感じます。 感性を用いて判断をすると、感性は確実に自己の内から溢れでたものですから、ループから抜け出せるんじゃないだろうかと感じます。

しつこく自己批判してしまうのか、また疑問がわきました。数学的正しさを感性で判断できるのかと。これは簡単に反論できます:ある数学を血肉にできているかどうかの判定に、感性を用いるだけで、数学の問題は自分の理解した数学を用います。 上の感性についてもですが、人に理解してもらえるかどうかは別の話であり、あくまで自分の中の判断基準を設けることができるのかということについてです。

発声練習様の、私が読んだ記事の範囲内のことを仮定して、精神的背骨のwell-definedness的な何かを話そうとしていたら、元がぼやきだけに感想文に落ち着きましたね。この記事は、next49様はご覧になるんでしょうか。肯定でも批判でもないただの感想文なので燃えないといいなと……。人様のはてな記事を引用した以上、IDコールする方が礼儀かもしれないと思ってしていたので、きっと通知が行くのだろうなあと。

「間違いを恐れず語っ」たというかぼやいた結果です。たぶん翌朝読んだら間違いだらけだなあという気持ちに自分でなりそう。